スキーのジャンプをモチーフにした東野圭吾さんの作品。割と初期のもの。
スキージャンプのホープとして期待を背負っていた22歳の天才ジャンパー・楡井明が殺された。犯人を密告する手紙が警察の元へ送られ、犯人の元にも自首を勧める手紙が届く。やがて逮捕されたのは、アリバイもあり最も動機が無いと思われた楡井のコーチ・峰岸だった。留置場で峰岸は完全犯罪を打ち破った密告者は誰なのか、何故破られたのかを探る。一方、動機や手口を黙秘する峰岸を前に、警察はある選手に目をつける。楡井をそっくりそのままコピーしたかのようなジャンプを見せる杉江翔。練習場で彼らは科学を駆使したシステムを取り入れた翔の父でありコーチでもある泰介と、泰介の下過酷な科学的特訓を繰り返す翔の姿を目の当たりにする。翔の特訓と楡井殺人事件の関連を探るうちに、恐るべき計画が浮き上がってくる。それは科学力を駆使し天才ジャンパーを量産するシステムだった―
犯人が早い段階で明らかになり、その後は犯人を密告した人物についてと、犯人が殺人に至った動機を探っていく、という変わった手法のミステリー。そして単なるミステリーでなく、「スポーツに科学を取り入れる事は正しいのか、どこまで許されるのか?」といったテーマがあり、むしろそちらが見せ所となっているように思う。
科学に基づく過酷な特訓を続け人間らしさを失っていく翔の姿、そのモデルとして泰介に利用されコーチに殺された楡井、彼らの姿に胸が痛む[[pict:horori]]選手は駒ではない。選手をサイボーグのようにしてまで勝つ事に意味はあるのか。けど勝てなきゃ努力も苦労も評価されない、結果が全てのスポーツの世界の怖さを感じた。
最後の最後で、翔が人間らしい一面を見せた事で、この物語の読後感が救いのあるものになってる。
「現在のスポーツ界において、人間らしさとは敗北を意味する。それとも科学を駆使した勝利よりも、人間らしさを追求した敗北の方が価値があるとおっしゃるのですか。」
これは作中の台詞。難しい問題だと思う。ハイレベルな戦いになればなるほど、勝つ事の意味が重くなってくるんだろう。勝つ為の努力や肉体改造は当然の事なんだろうけど、それでもスポーツは人間の戦いであってほしいと思う。スポーツ音痴な奴の戯言なのかもしれないけど[[pict:yellow4]]
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